優しさ≠愛
18:51
最近私が心の底から間違ってなかったなと感じられた方程式の一つが
優しさ≠愛
驚くほど多くの人が間違っているけれど、ここを忘れたり勘違いするとロクなことが起こらない。
私が最近よく一緒にお話しする人の一人に、愛に溢れているスパルタタイプの人がいる。
私は、天使のように笑優しいけれど、
だからといって愛に溢れているとは言えない。
愛と優しさに繋がりなんてない。
私は生まれて数年経って
優しくいる方が、愛を与えるよりも幾分も楽だと気づいた。
おそらく多くの人が高校を卒業する前に気づいているんじゃないのかな。
優しくしておくと、楽に生きることができること。
随分変な人じゃない限り、優しくしてくれる人に嫌な感情を持つことはないし、変に恨まれたりしない。
優しさは私を生きやすくするためのもので、誰かに与えているわけではない。
優しさは所詮自己満足で、見返るを求めるとかそういったものではなく、もともと優しくする時私たちは何も与えていない。
時々、悟りきれていない人は、誰かのために優しくなっている気になっているけど、それは本当に驚くほど、滑稽で、無駄だ。
でも、本気でその人に対して意見をすることには愛が必要。
愛を発揮するにはかなりのエネルギーが必要で、強さに裏打ちされる必要もある。
愛の鞭というのは本当によくできた言葉だ。
相手のことを思えば厳しい言葉を言うべき時がある。
その時言わないのは、優しさで言うのが愛だ。
ただ、愛の鞭という言葉は、鞭を受けた側が言うべき言葉で、打った側の人間はあれは愛の鞭だよと言ってはいけないと思う。
あなたのためを思って厳しくするのよ。と厳しくしている相手に言うのは、謎。
言った瞬間それは愛ではなくなる。
その言葉を言わないと、不安なレベルな愛ならば鞭の形で与えるべきではない。
本気で愛を与えている人は、愛であると言わない。
君のためを思って、、、、、などと言ってくるのは全部DV。洗脳。
物理的ではないDVなんて山のように存在する。
そもそも君のためなんて言葉を言う人は基本的に「優しさ」しか与えてくれない。「優しさ」さえ与えてくれない人もいる。
本当にあなたのためを思ってくれている人は、そんなことを微塵も言ってこない。ただ淡々と、事実を述べて、それが理想と比べてどう違うかという現実を教えてくれる。
そして、不可能に思えるような解決策を提示もしくは、一緒に考えてくれる。
これが愛で、愛は愛であるとその時はわからない。むしろ与えている側でさえ、愛であることに気づかないときもあるほどに。
少し経って、振り返った時愛だったなぁとわかる程度で、受けている瞬間にはほとんど気づかない。
だからこそ、愛はエモいと称されることが多いんだろう。
確かにそこにあったけれど、証明する方法も手に残るものもなにもない。
なんだか語ってしまったけど。
この世から虐待とかDVとかいじめとか、そんなものがなくなればいいのに。
なくならなかったとしても、被害者が強くなくていい世界にしたい。
被害者がこれ以上戦わない世界でいたい。
それには優しさじゃなくて、愛が必要。