匿名になると大胆になれる理由
14:37
本当にさぼるのが上手な私は全く持って毎日投稿することなど無理なのだけど、テスト期間やレポートの締め切りが近づくとはてなブログにきてしまう。
部屋の掃除をしたり、映画を見たりと逃げてきたけれどパソコンの前に座るようになった分たちが悪い。やった気になってしまうから。
前置きはこれくらいで、今日は匿名について考えてみた。
匿名でインフルエンサーなどに謎の説教を送ったり、顔出しをしていないけれど本を出すほどの影響力を持ったり
かく言う私も匿名性の生きやすさを知った。
インターンの関係でノートを始めることになったのだけど、顔を知っている人に向かって文章を書くのはめちゃくちゃ難しい。
一番難しいのは語尾。普段話している通りにはできないし、だからと言って固いとなんかなあって思われるのかなとか自意識過剰になって何も書けない。驚き。
しかしこちらのはてなブログは誰も私のことを知らずに私も誰に届いてるか知らずにかけるので書きやすさに驚いた。匿名だからいえることで人を傷つけないものなんてあるのだろうかと思っていたけど、あるよね。
匿名だから人を傷つけるんじゃなくてその匿名に守られているから人を傷つけられてしまう人自身に問題があるだけなのに、匿名を敵視するのは日本人らしいなと思う。
日本人は何においてもその人らしさを決めたがる。
就活でも自分らしさ、学校の友人関係でも自分らしさ、でも自分らしさって自分で決めるのはいいけど周りと比べて作った自分らしさは自分らしさじゃないよってことを誰も教えてくれない。
だから、あなたらしいと周りから決められた自分から外れたことはやりにくい。しかし匿名であればその人らしさを自分だけで作り上げることができる。周りの物差しで測った自分ではなく、自分の物差しで測った自分になれる。だから匿名になるとなりたい自分になれそれが大胆さにつながる。
コロナで新しい人と出会えない分匿名になり新しいことを始める人も多い。オンライン活動で人生が良い方向に変わった人は、悪い方向に変わった人とおんなじかそれ以上にいるはずで。
何かで見たセリフですごく心に残っているものがある。
「うざい」「きもい」って言葉はすごく悪い言葉だし言わない方が良い言葉ではあるけど、これを言われたことで死にたくなるようになってはいけない。綺麗な世界を子供たちに見せたいけど、綺麗事だけでは彼らを守ることができない。
この世界は地獄なのかと錯覚するようなことが、毎日毎日毎日おこって、心をすり減らしている人がほんとうに溢れているけど、それをなくすよりも傷つかない心を育ててあげることが、生きることにつながる世界だなあと改めて感じる。
本当に優しいことだけが与えられる世界であればいいなと何度も思ったし、何度も願ったけど、それじゃ命を守るのには間に合わない。
女子大生が感じる大人になったかも 、とおもうこと
「大人になったなと感じるとき」
動物というのは、自分が年を取っても気付きにくいもので。人間も動物であるから、同様に気づくのが遅い。猫や犬と話せるわけではないから、比べられないが人間はかなり遅いのではないかなと思う。
もうとっくに小さな頃憧れていた、大人とよばれる20歳をこえたけれど、12歳の頃の自分と何が変わったかなんてわからないし、ましてやあの綺麗なお姉さんになれた実感はない。
それでも、少子化と言われる日本でも毎年赤ちゃんが生まれてきて、私たちは年々「後輩」というものが増える。
まあそんなことは、おいといて、私が大学生になって大人になったなあと感じた瞬間をいくつかあげたい
一つ目は、勧誘系の人に「親に相談します。」という言葉が言いにくくなったとき。お金を使うとき、特に大きなお金になればなるほど、中学生や高校生の時は、それは当たり前に最初にいう言葉であったが大学生になると自分で決めることができることが増える。親のせいして断るのが難しくなってきている。親に頼らずに、ズバッと断れる人間に早く成長したい。
二つ目、友達が運転する車に乗る時。
とくに小学校の友達、地元の友達と昔と同じ場所を通っているのに、私たちが乗っているのは車で横を高校生が自転車で通ったりする瞬間。私は本当に大人になってしまったなと感じる。
高校生の頃なら自転車で行けた距離がもう車で移動することが当たり前になって、運動したいときは歩いて、自転車に乗る機会は0に近い。あの頃の私たちにとって一番効率的だった交通手段がいまでは、一番非効率なものと化していて。
三つ目は、夢が小さくなっていくのを感じた時。
それは、自分自身のとかそういうのではなくて、夢物語のようなことを話せていた耳朶が過ぎて、突拍子もないことでさえも現実的なことでしか表現できなくなっていくこと。
例えば、働きたくないと思っていたら働かない選択ができていたが、いまではどれだけ快適に働けるかを追求する友人が増えた。それがいいことか悪いことかそれは全く今回のお話ではないのだが、自分で会社を立ち上げるとか、友人と一緒に働くとか、そもそもの働かないという選択が消えていること、それが当たり前の認識になりつつあることを感じた瞬間に、ああこれが大人になることかと感じる。
昔に戻りたいと感じた瞬間に人は大人になると聞いたことがある。
未来が楽しみな人は、子供であると。
初めて聞いたとき、なるほどと思ったし、今でもそうだよなあと思っているけれど、それでも子供である自分と大人である自分どちらも存在する。そしてどちらの自分もいとおしいと思う。
もっと大人な自分にも、もっと子供な自分にも会い私を構築していけばきっともっと楽しい人生をつくれる。
誕生日おめでとう私。
優しさ≠愛
18:51
最近私が心の底から間違ってなかったなと感じられた方程式の一つが
優しさ≠愛
驚くほど多くの人が間違っているけれど、ここを忘れたり勘違いするとロクなことが起こらない。
私が最近よく一緒にお話しする人の一人に、愛に溢れているスパルタタイプの人がいる。
私は、天使のように笑優しいけれど、
だからといって愛に溢れているとは言えない。
愛と優しさに繋がりなんてない。
私は生まれて数年経って
優しくいる方が、愛を与えるよりも幾分も楽だと気づいた。
おそらく多くの人が高校を卒業する前に気づいているんじゃないのかな。
優しくしておくと、楽に生きることができること。
随分変な人じゃない限り、優しくしてくれる人に嫌な感情を持つことはないし、変に恨まれたりしない。
優しさは私を生きやすくするためのもので、誰かに与えているわけではない。
優しさは所詮自己満足で、見返るを求めるとかそういったものではなく、もともと優しくする時私たちは何も与えていない。
時々、悟りきれていない人は、誰かのために優しくなっている気になっているけど、それは本当に驚くほど、滑稽で、無駄だ。
でも、本気でその人に対して意見をすることには愛が必要。
愛を発揮するにはかなりのエネルギーが必要で、強さに裏打ちされる必要もある。
愛の鞭というのは本当によくできた言葉だ。
相手のことを思えば厳しい言葉を言うべき時がある。
その時言わないのは、優しさで言うのが愛だ。
ただ、愛の鞭という言葉は、鞭を受けた側が言うべき言葉で、打った側の人間はあれは愛の鞭だよと言ってはいけないと思う。
あなたのためを思って厳しくするのよ。と厳しくしている相手に言うのは、謎。
言った瞬間それは愛ではなくなる。
その言葉を言わないと、不安なレベルな愛ならば鞭の形で与えるべきではない。
本気で愛を与えている人は、愛であると言わない。
君のためを思って、、、、、などと言ってくるのは全部DV。洗脳。
物理的ではないDVなんて山のように存在する。
そもそも君のためなんて言葉を言う人は基本的に「優しさ」しか与えてくれない。「優しさ」さえ与えてくれない人もいる。
本当にあなたのためを思ってくれている人は、そんなことを微塵も言ってこない。ただ淡々と、事実を述べて、それが理想と比べてどう違うかという現実を教えてくれる。
そして、不可能に思えるような解決策を提示もしくは、一緒に考えてくれる。
これが愛で、愛は愛であるとその時はわからない。むしろ与えている側でさえ、愛であることに気づかないときもあるほどに。
少し経って、振り返った時愛だったなぁとわかる程度で、受けている瞬間にはほとんど気づかない。
だからこそ、愛はエモいと称されることが多いんだろう。
確かにそこにあったけれど、証明する方法も手に残るものもなにもない。
なんだか語ってしまったけど。
この世から虐待とかDVとかいじめとか、そんなものがなくなればいいのに。
なくならなかったとしても、被害者が強くなくていい世界にしたい。
被害者がこれ以上戦わない世界でいたい。
それには優しさじゃなくて、愛が必要。
イケメンとは
22:33
イケメンという言葉を私は
「いけてる面(顔面)」だとかなり思っていた。
それが「いけてるメンズ」の略というからびっくりした。
私は他人の見た目をブサイクだと思うことはそうそうない。
でも、見た目も中身もいけてる男性を見たこともあまりない。
だから、イケメンという言葉は外側のパッケージを指すのだと勝手に思っていた。
芸能人にもよく使われる言葉だし、私たちが見ることができるのは彼らのパッケージ部分だけだから、中身までいけてる男性かどうかなんてわからないじゃないか。
それなのに、いけてるメンズがイケメンの意味なんて、少し裏切られた気持ちだ。
じゃあイケメンを信じちゃいけないとか、イケメンはろくなやつがいない的な話はどこから来るのか。WHERE ARE YOU FROM?
いけてるメンズの略なら、悪い奴じゃだめじゃないのか。ろくなやつじゃないなら、それはパッケージがすぐれてるクズなわけで、イケメンじゃないじゃないのか。
イケメンと呼ばれるあやつらはじつはイケメンじゃないのか。
イケメンという言葉にクズが付属した瞬間イケメンと言う言葉の意味が変わるのか??英語でいうところのUN的な感じで??
ていうかいけてるメンズの略なら育児できることも含まれてるはずだから、イクメンはどういうことなの?育児するだけの男が育メンなの?じゃあ育児するウーメンもしっかりと評価していただきたい早急に。
自分でも何を言ってるのかわからなくなってきた。
まあでももう出来あがっている言葉にとやかく言ったところでどうにもならない。
だから今日はパッケージが良い男性はなんと略すか考えてみる。
パケ良き?パケグ?グッドルッキングガイ?グルガイ?
まずパケ良きはなんか、携帯電話のプランっぽい。1980円くらいの
パケグはわからん。国の名前でありそう。アフリカあたりに。それか、何かを挟んでるなにかしらの料理名。
グッドルッキングガイ略してグルガイは、もうぐるなびしか思い浮かばない。
というか中身も外見もいけてる女性はイケウーなのか、それともイケレディなのか。
なんでもいいけど、イケメン増えて欲しい。
オンラインクラスと女子大生
お題「#この1年の変化 」
23:12
何度かお伝えしたこともあるかもしれないが、私は関西の大学生をしている。文系の学部で、真面目にしっかりと勉強したことがあるとはお世辞にも言えない学生生活を送っていた。授業には出ているけれど落とした単位も多くある。
もし大学生じゃない人がいたときのために説明するが、9割の文系授業は単位が取れる。出席だけでも取れ流授業もあるし、レポートは字を埋めるだけでいい授業もある。
大きな理由のは、かなり完璧主義なところがあると思っていたところだ。(実はそうではなかったけれど)ちなみに、私は大学一年生の時に、授業の成績がどうつけられるのか理解しておらずかなり悪い成績を授与された。
実は、私はオンライン授業で覚醒したタイプの人間だった。学校に通うという行為、毎日同じ場所に行くと言うルーティン化してしまった行為、それだけでやる気が削がれてしまう人間であるということを知った。
私が大学一年生の時に単位を取れなかったのは、100点を取れないとわかったら嫌になるのではなく、今自分がどこにいるのかがわからなければやる気を持続することができない。とりあえずやっとくということが苦手だった。
つまりオンライン授業が始まると、毎日楽しくて仕方がなかった。気になったことはすぐ調べることができるし、通学時間や準備をする時間が削れたために大学に関係のない勉強への時間とモチベーションを持つことができたのだ。
確かにその節はあった。自分の学部の授業よりも他学部の授業の方が成績が抜群に良かった、短期集中系の勉強法は得意だった。
コロナが流行ったこの一年で、私は大学に入ってから一番本を読んだし、映画を見た。メイクの練習をしたし、自分について考えた。映画をカット数に注目して見たり、英語の勉強のために同じストーリーを何度も見たり、外国語で記事を読んだり、SNSでマーケティングについて独学を始めてみたり。
言語のクラスもオンラインの方がクラスルームに行くよりも集中して受けることができた。来月からは、オンラインのクラスを学外で受け始めようと思っている。
プログラミングかデザインも学びたい。ヨガの教室にも行きたい。
感覚的な充実度では、学生団体に入って忙しくしていた時より、サークルに行きまくっていた時より、バイトをしていた時より、留学していた期間より充実しているように思う。
首都東京だけであったチャンスがオンラインに流れたことで、かなり様々な人のお話を聞けるようになったこともとても嬉しかった。インフルエンサーと呼ばれる人だけでなく若い経営者の人や、広告系の人、様々な人がオンラインで、話を聞かせてくれるようになった。
そして、来年は4年生になるのだけれど、実家に帰ってオンラインで授業を受けることにした。だから、家族といる時間も増えた。地元がかなり地方な私は、就職も都会出する予定だったのでこの街に帰ってくるとは思っていなかった。離れたからこそわかった魅力を、存分に感じるチャンスだ。嬉しい。
今まで日本は本当に忙しい、焦る国だったように思う。〇〇しなければならないというタスクのみが一人歩きして、それが存在する理由、学ばなければならない理由を考える時間はなかった。
じっくりと考え決めきるということ、自分で選択するということを学ぶことができる時間になって、よかった気がする。
理想的な大学生活ではないかもしれないけれど、新しい生活スタイルを生み出すこと。それは自分だけでできることではないので、この一年ほぼ強要のようなスタイルでうまれた生活スタイルを体験できたことは、貴重だったのではないかと思っている。
なにごとも楽しんだもん勝ちだし、愛されたもん勝ちだし、新しいことには挑戦してみる方が知れることは多い。
死んだ一年と呼ぶ人もいるけれど、生かすも殺すも自分次第。
春からの大学生、合格おめでとう。どんなスタイルでも楽しむ方法は絶対あるから楽しめ。
女子大生入門とは
15;39
女子大生入門という言葉に込めた意味
それは、女子だからという言葉で誰も苦しまないように。入門として説明したいと思ったとか、大学生活を充実させてほしいとかそういうことではなく、
私という女子大生はこんな風に感じてます、考えていますという表明みたいなものだ。
これで楽しんでくれる人がいればいいなと思って始めた。
女子大生の考えていることを知りたい人のきっかけになればいいと思っている。私は1人で書いているから、多数意見ではないけどこんな考えをしている女子大生がいることは事実だから、入口として入門という名前はいいんじゃないかなと思っている。
初めてブログを始めたときは、ディズニーチャンネルのスターの情報を書いていた。小学生の頃で、インターネットを使っている人も少なくて、繋がるというよりも紙の消費を減らせるなくらいの感覚だった。
なぜこんなことを言い出したかというと、私が片足を就職活動なるものに突っ込み出す時期になったからである。
もしあの小学生のことにしていたブログを今まで続けていたら?もし、中学生の時にBethany motaの真似をしてVlogなるものを続けていたら?もし、あの時、、と考えることが増えてきた。それは、後悔というよりも興味に近いもので別に人生100年時代今からでも全く問題なく始められることだらけである。
ただその中で一つだけ後悔があれば、自分が何を感じていたのかを忘れてしまっていることだ。 私は人よりも記憶能力が低い。生活に支障をきたすものではないが、思い出というものを覚えていくことができない。故に人の顔名前を覚えるのも苦労する。 会わなくなったらすぐ忘れる。小学生のことのブログをしていたのを覚えているのもこの間ノートが出てきてそう書いていたからだ。
だから意識してどう感じていたのかを書き留めていきたい。何が嫌で何に違和感を感じて、何に腹がたったか。諦めがちな自分が、諦めない方法は怒りとか違和感をどこかに書き留めておくことなのではと思うようになった。
女子大生はいきなり自由になって、いきなり汚い大人を見せられたりする。よくわからないルールやしきたりを知って、先輩から過去問を貰えるかどうかで成績が変わったり、先生とラインができるかで成績が変わったりすることに気づく。高校の頃の派手な女の子たちが先生から好かれていることた先輩の媚びを売れる子が、可愛がられていることも知っていたけど、それよりももっと大きな贔屓が存在すると気づく。世界が平等でないことに、対面する。
面接で結婚する気があるかと聞かれて、雑誌で受かるメイクを特集されたかと思えば、男女差別についてのレポートを書かされて、一気飲みをさせられている男子を横目に見たり、一気飲みをさせられた女の子が亡くなった話とか、ストーカーに殺された女の子の話とか、可愛い服の可愛くない値段とか、人は見た目じゃないという言葉が5年前には流行っていたけど、今は見た目も実力であるって言われたり、自分より年下の子が自殺をしている事実を実感したり、SNSフォロワー数をインターンで聞かれたり、タピオカが流行っていることをワイドショーでバカにされたり。大学に行きたいと呟いたら責められている子を見たり、ギャラのみだとかパパ活だとかをバカにするおじさんの話を聞かされたり、若い人と働いていることを自慢したい人の駒として使われたり。起業意識がないこととか、大手を目指さないだとかをバカにされたり。3組に1組が離婚している時代に、女性ばかりが育休をとっている事実とか、
そんなことを忘れてしまう。その方が楽だから。楽することは悪くない。元気な人が戦えばいい。でも自分が元気な時に、その怒りを忘れていたら、元気のない人を助けられない。
私は元気な人にこの違和感とか感じていることが届けばいいなと思う。元気のない人に楽しみ方が伝わればいいなと思う。
私は、私が居心地が悪いと感じる言葉を発信した個人を責める気はないけれど、それを発信できてしまう環境を作った雰囲気とか空気とか、誰もそれに異議を唱えなかったという事実とかそういう部分がすごくかわいそうだと思う。彼らも、彼女らも正しいと感じてそういう価値観を作られてきたわけで、自分1人でその考えに辿り着くはずはない。
そういう人に、一歩だけ立ち止まってもらえるような言葉を発せられるような人になれたら、
コロナのおかげでSNSで人と連絡を取ることにハードルを感じなくなったこの時代だからこそ、もっと生きたいと思える世界を作れるんじゃないかな
レポートが進まないから、ちょっと筆休めに書いた私の意思表明。みたいなもの。
”エモい”という言葉にイラつく理由
21;02
何年ぶりの更新でしょうか。
そろそろこれは女子大生応用になるべきなのですが、まだ入門で書きたいことがあるのでしばらく入門で行きたいと思います
本日のBGMは
エモいというコメントがいっぱいのこの曲でいきましょう。(この曲好きです)
さてここ6ヶ月で圧倒的な地位を得た言葉といえば
密、コロナ、そして我らが”エモい”ではないでしょうか。
タバコとストロング缶を暗いところでフラッシュ焚いて撮った写真にエモいと書いているストーリーを何度見たでしょうか
あと、逆光の写真とか?波打ち際の足元の写真とか?エモさにあふれるインスタグラム界隈でございますよね。
断じて、別にその写真が嫌いだというわけではない。でもさ、エモさってつくって撮影できるものなのか?
私の理想としてはさ、エモさって写真に写らないで欲しいし、作れないでいてほしい。ただのわがままなのだけど。
きっと人によってエモさって違うはずなのに、雑誌とか大手メディアとかが取り上げてしまうとそれはもうエモじゃないよね。それはただの流行で、ってなる。
リングがついたキャンディーをみたときにエモいと感じる人がいれば、セックスした後の朝日がエモいというひともいるだろうし、だからストロング缶とかタバコがエモい人がいてもいいんだけど、共有した時点でそれはエモくなくなるのだ。
だからエモい写真っていうのは存在しないと思う。特に雑誌で特集できるようなものは。
でもそれでも、みんな共通のエモいを求めて、エモい写真を取ろうとしたりどうやって撮ったらエモいか紹介してて、それが嫌だ。
エモい瞬間は私にもある。匂いとか見た目とか一瞬のものが何か過去を思い起こさせて、全く一緒なわけでないから懐かしいという言葉ではなくでも過去にあったもの。全く同じ人生を送る人なんて、双子であってもありえない。だからこのエモさは私だけのものであるし、これくらいは共有しないでいたい。
すぐに簡単に共感を求めることができる言葉それがエモい。そんなに共感はしなくていいし、なくてもいいのに。大丈夫だよ。